藤永田造船所争議(1921年)


昨日から始まりました、レアもの資料紹介専用ブログ。第2弾は大正時代の労働争議の資料です。

 このころの争議団の「要求書」だの「嘆願書」だのは和紙に墨書きです。印鑑の代わりに拇印を押していますし、なかなか時代がかった感じで往時が偲ばれます。


 藤永田造船所は300年近い長い歴史のある造船所で、戦後は三井造船に吸収合併されました。さらにその後造船所は閉鎖され、今、大阪には大手の造船所がありません。


 さて、この労働争議は、1921年(大正10年)5月27日に始まり、一ヶ月間、ストライキとデモに明け暮れる大きな争議となりました。そもそもの発端は造船不況による解雇ですが、ここには争議以前から労働組合が組織され、14支部700名の組合員を擁していました。労組員たちが会社に提出した嘆願書には団体交渉権を求める項目があり(当時、労働三権というものはなく、労働組合には団体交渉権が保障されていなかった)、これを蹴られた組合側が新たに「要求書」を提出し、会社はそれを拒否するということの繰り返しで交渉は暗礁に乗り上げました。この争議を指導したのは友愛会西尾末広(後の民社党初代委員長)ら、大阪の労働運動の重鎮です。幹部が大勢、警察に検束されるなど争議は大荒れとなりましたが、労組員は半減したものの団体交渉権は部分的に認められ、6月27日に争議は決着を見ました(参考文献『大阪社会労働運動史』第1巻)。


 写真は組合が提出した嘆願書と要求書、会社側の回答などです。嘆願書の字は丁寧ですが、これが要求書になると筆が荒れていて、組合側の怒りが文字からも伺えるようです。


 <関連資料>
 『藤永田造船労働運動史』藤永田造船労働組合運動史編集委員会 1970年
 『藤永田二七八年』藤永田造船所 1967年


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